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新座の由来

ページID:0000454 更新日:2012年11月1日更新 印刷ページ表示

 「新座(にいざ)」という名称は、天平宝字2年(758)武蔵国に新羅郡が設置されたことに由来します。そのころの新座の周辺は、律令政治により、先進文化をもつ新羅国(朝鮮半島)の人々の政治的移動が行われていました。その後「新羅郡」は「新座郡」に改称されました。
 明治に入ると廃藩置県及び市町村制により、野寺村、中沢村、十二天村、下中沢村、下片山村、石神村、原ケ谷戸村、辻村、堀ノ内村、栗原村の10村が片山村と合併し、また野火止村、北野村、菅沢村、西堀村の4村が大和田町と合併しました。町村合併促進法により昭和30年3月、大和田町と片山村は合併し、古い地名の新座郡(にいくらごおり)から名をとり、新座町(にいざまち)となりました。
 その後都市化とともに人口の急増がはじまり、国勢調査人口では昭和30年の11,700人が、昭和45年には77,704人となりました。そして同年11月1日市制が施行され、現在人口15万人余りの人口を擁する首都圏の中堅都市となっています。
 都心20km圏に位置する新座市は典型的な東京のベッドタウンとして発展し、市の東北部は、朝霞市、志木市、入間郡三芳町に、南西部は、所沢市、東京都清瀬市、東久留米市、西東京市、練馬区と多くの市(区)と接しており、北に東武東上線、南に西武池袋線、東西にJR武蔵野線が走っています。
 市の中央部は武蔵野の面影を今も残す緑多い野火止台地で、そのほぼ中央に臨済宗の名刹平林寺があります。平林寺の約43万平方メートルに及ぶその広大な敷地は、大部分がクヌギやコナラなどの雑木林に覆われ、昭和43年に国の天然記念物に指定されました。境内は、首都圏には珍しい静寂に包まれた自然の宝庫となっています。
 この境内を流れる野火止用水は、承応4年(1655)川越城主松平信綱の命をうけた安松金右衛門が工事を指揮し完成させたと言われています。同用水は玉川上水より取水し、東京都清瀬市・東久留米市より市内に流れこみ、志木市を流れる新河岸川を越え宗岡地区まで達していました。また、荒れて乾いた野火止台地を潤し、昭和20年頃までは住民の生活用水としても利用されるなど、同用水はわたしたちの生活を支える重要な役目を担ってきました。しかし、その後の人口増加や宅地化などにより、汚染が進みました。しかしながら貴重な文化遺産を後世に残そうとする市民の願いと都や県の協力のもと、復原対策事業・清流対策事業により流れが復活し、今では魚が泳ぐきれいな用水に生まれ変わり、市民の憩いの場となっています。昭和63年健康平和都市宣言した本市は、「自然と人間の調和した健康都市」を基調とし、魅力ある21世紀への郷土づくりをめざして、歩みつづけています。