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新座の歴史

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年11月1日更新

 新座市は、柳瀬川・黒目川の開けた沖積低地と、それにはさまれた野火止台地からなり、古くから居住の場のみならず、宿場や交通の要所として栄え、時代の流れとともに大きな発展をしてきました。すでに旧石器時代には、黒目川流域の市場坂遺跡に先人達の足跡が見えます。
 市域には、旧石器時代から古墳時代にいたるまで両河川流域を中心に100ヶ所余りの遺跡があります。稲作農耕に代表される弥生時代には、両河川流域の沖積地が水田として拓かれて、周辺の新開遺跡では複数の方形周溝墓が発掘されました。古墳時代から奈良・平安へと時代が進むにつれ、河川流域全体に居住空間が広がり、ムラへと拡大していきます。
 
そのころ新座の周辺は、律令政治により先進文化をもつ新羅人の政治的移住が行なわれました。天平宝字2年(758)武蔵国に新羅郡が設置され、市域はその郡下に属しましたが、生産技術や生活文化の面で大きな影響を受けたものと考えられます。新羅郡はその後、新倉郡、さらに新座郡と名称を変えますが、本市の名はその歴史的名称に由来するものです。
 
やがて、武蔵武士の台頭から片山郷の出身である片山氏が、鎌倉時代から南北朝時代にかけて黒目川流域を中心に活躍します。一方、普光明寺や氷川神社を中心とする柳瀬川流域の大和田郷一帯にも文化の華がひらきはじめ、市域は、にわかに豊かな歴史的発展を始めました。
 
近世に入ると、江戸近郊地という政治的位置から川越・高崎藩領をはじめ、片山七騎などが知行した旗本領や、天領、平林寺領が入りくんで支配しました。なかでも川越藩主松平伊豆守信綱による野火止台地の開発や、それに伴う野火止用水の開削は有名です。江戸時代には開発によってできた村などを含め、市域には15の村が成立しました。これらの村々は幕末の変動を経て明治を迎えます。
 
明治8年(1875)4月、黒目川流域の片山10ヶ村は、合併して片山村となり、明治22年(1889)4月には町村制施行によって大和田町と野火止村ほか新田3ヶ村が、合併して大和田町になりました。その後、昭和30年(1955)3月には大和田町と片山村が合併して新座町が成立し、さらに昭和45年(1970)11月には新座市に市制を移行しました。
 
現在、人口16万人を擁する新座市は、埼玉県南西部の中堅都市として、順調に発展を続けており、「連帯と協働で築く 雑木林とせせらぎのある 快適創造都市にいざ」を目標としてまちづくりをすすめています。