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黒目の里をあるく

ページID:0034549 更新日:2015年4月20日更新 印刷ページ表示

片山の歴史

 黒目川のひらけた沖積低地に展開する片山は、古くは片山郷で、「黒目の里」とも呼ばれていました。川と湧水に恵まれた黒目川流域には、旧石器時代から中世にかけて約60か所の遺跡があります。
 既に3万年~1万5千年前頃の旧石器時代には市場坂遺跡や池田遺跡に、ナイフ形石器や細石器などの先人たちの足跡がみられます。嵯峨山遺跡では、数多くの縄文時代の住居跡と生活用具などが発見されています。古墳時代から奈良・平安へと時代が進むにつれて、黒目川流域全体に居住空間が広がります。そしてムラへと拡大していきました。
 天平宝字2年(758)、武蔵国に新羅郡が設置され、片山はその郡下に属します。新羅郡は、延長5年(927)には新座郡へと名称が転じていますが、新座市の市名はこの歴史的郡名に由来するものです。
 片山郷は、鎌倉時代の弘安2年(1279)に記録された「武蔵国国庫五升米納員数注文」によると国衙領として記載されています。やがて中世武士の台頭から、片山郷の出身である片山氏が、鎌倉から南北朝時代にかけて黒目川流域を中心に活躍します。一方、法台寺を中心とした時宗二祖・他阿真教上人の活躍もみられ、時宗の人たちによる板石塔婆(板碑)が造立されました。
 近世に入ると江戸近郊という政治的位置から旗本の支配下におかれ、黒目川沿いの片山には、栗原・原ヶ谷戸・石神・野寺・下片山・中沢・下中沢・堀ノ内・十二天・辻の10ヶ村が成立しました。村々は木村、桜井、米津など「片山七騎」と呼ばれる7人の旗本によって知行され、幕領として明治維新まで続きました。
 明治8年(1875)4月に片山10ヶ村は、統合して片山村となり、やがて幾多の変遷を経て昭和30年(1955)3月に大和田町と合併して、新座町の大字の一部、片山となり、さらに昭和45年(1970)11月の市制施行により現在に至っています。

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