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野火止用水をあるく

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年4月20日更新

野火止用水の歴史

 徳川家康が江戸城へ入府してから50年程が経つと、江戸の人口増による水不足がおこったため、承応2年(1653)幕府は多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許しました。総奉行として老中の松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いました。難工事になり、信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じて工事を続行させ、承応3年(1654)完成しました。
 信綱はその功績が認められ、領内の野火止に玉川上水の分水を許されました。承応4年(1655)、関東ローム層の乾燥した台地のため、生活用水に難渋していた野火止の地に、野火止用水が開削されました。工事担当を安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。現在の東京都小平市から掘りおこし、野火止台地を経て新河岸川に至る全長約24キロメートルにも及ぶ用水路です。用水路は、素掘りにより開削されていますが、土地の低いところなどには、版築法などにより堤を築いたりして野火止の台地に引水されました。
 川越の商人の榎本弥左衛門(えのもとやざえもん)が書いた「萬之覚(よろずのぼえ)」によると、工事開始は2月10日で、その40日後の3月20日には野火止に水が流れてきたと記されています。用水の分水割合は、玉川上水7分、野火止用水3分といわれ、主として飲料水や生活用水に使われました。
 この野火止用水開削に前後して、川越藩では野火止の耕地を短冊形に区画して農民を入植させ、新しい村(野火止、西堀、菅沢、北野)を創り、さらに周辺の他領16か村をはじめ、松平家の一門や家臣まで開発に参加させるという計画的な新田開発を行いました。
 その後、寛文2年(1662)に新河岸川に懸樋をかけ、用水が対岸の宗岡(志木市)に引かれ、また、分水が館村(志木市)や宮戸新田(朝霞市)の水田耕作にも使用されるようになりました。こうして野火止用水は飲料水だけでなく、のちに田用水としても利用されるようになりましたが、豊かな水を得た人々は、この用水に深く感謝し、後世「伊豆殿堀(いずどのぼり)」とも唱えました。開削以来、野火止の台地と人々の心を、その清らかな流れで野火止用水は潤してきました。
 ところが、昭和24年(1949)頃から生活様式が変わり出し、排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になりました。特に、昭和38年(1963)頃から宅地化が進行し、用水への排水がさかんにおこなわれるようになりました。それに追い討ちをかけるように、昭和39年(1964)に関東地方が、干ばつに見舞われ、東京が水不足になり野火止用水への分水が中止されました。
 しかし、文化的業績のかけがえのない野火止用水をこのまま滅ぼしてはいけないと、埼玉県と新座市は「野火止用水復原対策基本計画」を策定し、用水路の浚渫(しゅんせつ)や、氾濫防止のための流末処理対策を実施しました。

散策ガイド

野火止用水沿いの施設間の距離

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