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にいざ見聞録(第11回 寺子屋と筆子塚)

ページID:0000424 更新日:2012年11月1日更新 印刷ページ表示

  筆子塚の写真
 江戸時代の末には、都市ばかりではなく、地方でも庶民の教育が広く行われるようになりました。庶民の子どもたちに教える場所が、一般的に寺院だったため、寺子屋と呼ぶようになりました。
 師匠には、武士、神官、僧侶、医者など知識を持った人々がなりました。手習いの内容は、「読み・書き・そろばん」が主なもので、学校が開設される以前の学習塾のようなものです。
 「埼玉県教育史」によると、市内には二つの寺子屋がありました。一つは、中野村の農民細沼清吉(ほそぬませいきち)が開いたもので、福永という武士の妻が師匠でした。同家は、幕末に農民が開設した寺子屋です。
 もうひとつは、片山法台寺(ほうだいじ)の寺子屋で、当時住職をしていた宗誉善敬(そうよぜんけい)が師匠でした。
 その法台寺には、写真のような「筆子塚(ふでこづか)」が残っています。筆子(ふでこ)とは学問を学ぶ生徒のことで、筆子塚は師匠の遺徳をしのび、たたえるために建立したものです。
 法台寺の寺子屋は、文字通り寺院に開設された寺子屋でした。

案内図

新座市道場一丁目10番13号 法台寺

周辺図