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新座市睡足軒の森(睡足軒・紅葉亭)をご利用ください

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年4月1日更新

睡足軒の森(睡足軒・紅葉亭)

住所/野火止1-20-12  電話番号/048-482-4004
  詳しい地図は新座市睡足軒の森(睡足軒・紅葉亭)をご覧ください。
  催し物などの案内は睡足軒の森をご覧ください。
                      

概要

  1. 土地面積:9,379平方メートル
  2. 建築面積 睡足軒:古材復元部分92平方メートル(木造茅葺田舎家・茶室・大炉の板間)
           紅葉亭:旧坐禅堂60平方メートル(木造瓦葺)

睡足軒裏庭    睡足軒表

紅葉亭    囲炉裏の間

 

説明

 「睡足軒」の敷地は、国指定天然記念物平林寺境内林の一部であり、9,379平方メートルを有する緑豊かな景勝の地です。
 現在は、平林寺の所有になっていますが、江戸時代は大和田・野火止・菅沢・北野・西堀の五か村を支配していた上野国高崎藩・松平右京大夫家の陣屋があったところです。現在、地名に残る「陣屋」はその名残です。
 電力事業に生涯を捧げ「電力の鬼」といわれた実業家である一方、茶道にも造詣の深かった昭和の大茶人・松永安左エ門(耳庵)氏が土地を購入し、屋敷地としました。
 近代の三茶人(益田鈍翁、原三渓、松永耳庵)と称される松永安左エ門氏は、昭和13年に、横浜三渓園で有名な原富太郎(三渓)氏の世話で、飛騨高山付近の田舎家を敷地内に移築させました。これを草庵として、親しい友人を招き、「田舎家の茶」を楽しみながら囲炉裏を囲んで団欒する日々を楽しんでいました。
 その後、昭和47年に茅葺の田舎家と敷地が、菩提寺である平林寺に譲られました。平林寺は、その草葺の田舎家を、民家であったが故に多少の手直しを加えて、寮舎「睡足軒」として利用していました。
 近年、睡足軒は、無住状態が続きましたが、園庭や建物などは、十分活用が図られることから、平林寺第二十四世・野々村玄龍老大師から、「青少年の体験学習の場や市民などによる日本伝統文化の活動場所として有効利用してもらえば幸いです」とのご厚意により、平成14年5月29日に新座市に無償貸与されたものです。

開園時間

  午前9時から午後4時まで

休園日

 (1)水曜日(ただし、この日が国民の祝日の場合はその直後の国民の祝日でない日)

  (2)夏季休園期間(7月中旬から9月中旬)

 (3)冬期休園期間(12月中旬から2月中旬)

 ※季節休園期間は、園内散策はできませんが、施設貸出は行っている期間がございます。

利用期間

  睡足軒:2日間まで連続利用可能
  紅葉亭:6日間まで連続利用可能

利用料

 利用日の1週間前までに納入してください。

 (1)睡足軒(定員30名)

  • 午前(午前9時から正午まで)   2,610円
  • 午後(午後1時から4時まで)    2,610円
  • 全日(午前9時から午後4時まで) 5,220円

 (2)紅葉亭(定員30名)

  • 午前(午前9時から正午まで)   2,610円
  • 午後(午後1時から4時まで)    2,610円
  • 全日(午前9時から午後4時まで) 5,220円

利用目的

  日本の伝統的文化活動(茶道・華道・短歌・俳句・古典など)やその学習、青少年の体験学習の場としての利用を主な目的としてご利用ください。

守ってください

  生涯にわたる文化・学習活動の推進と国指定天然記念物の保護と活用のため、以下のことを遵守してください。

  • 施設利用後は速やかに原状に戻してください。
  • 施設などを損傷、汚損しないでください。
  • 喫煙及び目的以外の飲食、備品などの移動、印刷物やポスターなどの展示又は配布、電気音楽器や打楽器類の使用、武術体育類の練習などは屋外を含め禁止します。
  • 利用時間を厳守してください。
  • ペットを連れての入園はご遠慮ください(ただし、身体障がい者補助犬の入場は可能です)。

松永安左エ門(まつながやすざえもん)〈耳庵(じあん)〉

  松永安左エ門氏は、明治8年長崎県壱岐に生まれ、慶應義塾大学に学び、福沢諭吉・桃介親子の薫陶くんとうを受け実業界に進みました。日本銀行行員、東洋製革社長、石炭商を経て、福岡電気軌道の設立に加わり、九州電気取締役、大正10年には関西電気副社長に就任するなど、電気事業経営に着手しました。その後、東邦電力などのトップマネジメントとして、新機軸をつぎつぎと打ち出し、東北電気、新潟電力などの社長にも就任し、「電力王」と称されるようになりました。東京に進出してからは、東京電力を設立するなど「科学的経営者」との高い評価を得ています。


 戦後昭和24年から25年に電気事業再編成審議会の会長として、主導の役割を果たし、電力会社の民営化を周囲の抵抗にあいながらも実現するなど、現在の民営9電力体制の生みの親となりました。
 また、新座市にありますサンケン電気株式会社の前身である東邦産業研究所の創始者でもあります。
 昭和4年、55歳のとき、所沢柳瀬村の広大な敷地に柳瀬山荘(やなせさんそう)を築き、その一角に、原三渓(はらさんけい)から川村瑞賢(かわむらずいけん)遺構の茶室「春草盧(しゅんそうろ)」を譲り受けて移築し、以後、昭和の大茶人としても知られました。
 耳庵の名は『論語』の「五十にして天命を知り、六十にして耳に順う」からつけたもので、茶の湯に目覚めた耳庵は既に61歳でした。
 最後の数奇茶人(すきちゃじん)松永耳庵は、昭和46年6月16日神奈川県小田原市板橋で永眠、97歳(数え年)の生涯を閉じました。
 自らが傾倒する石室善玖(せきしつぜんきゅう)の開山である平林寺に葬られましたが、遺志により葬儀・法要は一切執り行われず、法号もありませんでした。