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千体地蔵尊御開帳

ページID:0128214 更新日:2024年6月8日更新 印刷ページ表示
御開帳カウントダウン

33年に一度の千体地蔵尊御開帳まで、あと

 新座市大和田にある福寿山普光明寺には、33年に一度だけ御開帳される千体地蔵尊が祀られています。次回の御開帳は令和7年(2025)4月4,5,6日(金・土・日曜日)です。この機会に、ぜひご覧ください。

300日前(令和6年6月8日)

【千体地蔵にまつわるものがたり ~千体地蔵さま~】

 ~今回は、『にいざの民話』に掲載された、千体地蔵の物語を紹介します~ 

   おシャカさまがなくなられてから、そのあとおシャカさまにかわる仏さまが現れます。それはミロクぼさつだということです。

 このミロクボサツは五十六億七千万年あとに、おシャカさまのかわりになるということです。この長い年月、仏のいない間、世の中の人たちは願いごとをきいて救って下さるのが、お地蔵さまだと信じていました。それでお地蔵さまを彫りました。そのお地蔵さまに心を込めてお願いしました。これを地蔵信仰といいました。

 エゾ(東北地方)を征伐した英雄、坂上田村まろも地蔵信仰をしていました。そのころの東北地方は勢いの強い酋長があちこちに根拠地をもっていました。そして農民の収穫した作物をうばいとり苦しめていました。このことがわかり、都から二度もしずめに兵をおくりました。けれどもおさまりませんでした。それで坂上田村まろが征夷大将軍になりました。田村まろはたくましく、勇気をもった武将でしたから、それを知って大勢の兵士が集まってきました。田村まろは東北征伐が三度目のことですから、こんどこそ苦しんでいる人たちを助け、酋長をこらしめる作戦をはかりました。

 いよいよ都から大勢の軍勢をひきつれて、東北地方をめざしてむかいました。武蔵の国、大和田につきました。そのころの大和田は見渡すかぎり背丈ほどもある草がおい茂っていました。その中にお寺をみつけました。このお寺と近くの農家に兵士は宿をとりました。田村まろはその夜夢をみました。「この大和田の、この寺にお守りにもっている地蔵さまを納めなさい、すれば、このあたりの村人たちは幸福になるし、あなたも勇ましいてがらをたてることができますぞ。」そこで田村まろは、「はい。」と返事をしました。そして自分の大きな声で目をさましました。

 あくる朝、田村まろはお寺の住職さんに、夢にみた話をしました。そしていつも肌身はなさずお守りにしているお地蔵さまを、お寺に納めることにしました。田村まろは軍勢を従えて勇ましく東北地方にむかっていきました。

 そのころ国々をまわっていた行基ぼさつがお寺に立ちよりました。坂上田村まろが納めましたお地蔵さまをみました。行基ぼさつは開眼供養(たましいを入れる式)をされました。お寺の住職はじめ村人たちは、「とうといお地蔵さま、守ってくれるべえ。」と、地蔵堂を作りおまつりをしておがみよろこびあっていました。

 それから後、鎌倉時代になってのことです。源頼朝も地蔵信仰をしていました。地蔵さまは武士の守り本尊だったからなのです。国々の平定がようやくなりました。そこで源頼朝は鎌倉に幕府(武士の政府)を開きました。源頼朝はいつも心にかけて願っていたこと、征夷大将軍になりました。これは地蔵さまのお守りのおかげだと喜びました。それで地蔵さま千体を作り、お礼としてお寺に納めることをつねひごろ言っていました。都から運慶が来た時にも話していました。しかし頼朝は急な病気にかかり死にました。

 源頼家は父の後をつぎ将軍になりました。おりよく運慶は聖徳太子の像を作っていましたので、その後ひきつづいて地蔵さまを作ることをひきうけてくれました。頼家は千体の地蔵さまを、どこのお寺に納めればよいことかと家臣と協議しました。武蔵の国、鎌倉街道ほとりの普光明寺の地蔵堂、この寺には坂上田村まろが地蔵さまを納めている。その一体の地蔵さまとあわせて千体になるように地蔵さまを作ることをいいつけました。運慶とその弟子たちは体を清め、心をこめて木像の地蔵さまを彫ることにうちこみました。一体一体まごころこもる地蔵さまは作られていきました。千体の地蔵さま、千体の地蔵さま、と。

 中台の地蔵さまは右手に錫杖をもち、左手には宝珠を大事にかかえもっておられます。岩の上におかれた蓮の花の台座の上に坐っておられます。そのまわりには中台の地蔵さまをとりかこんで、とうとい大ぜいの地蔵さま、小さな(五~五・五糎)のが立っておられます。木で作られたとうとい地蔵さまですから、頼家がお寺に納めるときに、「三十三年ごとに開帳(扉を開いて仏さまを一般の人々に見せること)すべし。」と、伝えられているということです。お寺ではずっと守り続けてきているということです。昭和三十四年に開帳がありましたから、今度は六十七年四月におまつりがあり開帳になります。

 普光明寺、しずまりかえった広い境内に、古い時代そのままの地蔵堂、その中におられます とうとい千体の地蔵さま、一体、一体のたましいが、みつめる人の心に、伝わってきます。

 たとえ地蔵堂の扉は開かなくとも絵の中からでも、お地蔵さまの神通力で見守っていて下さることでしょう!!

 新座市のだいじな宝物なのですね。

(注)昭和六十七年は平成四年

(『にいざの民話』(新座民話の会・昭和60年 より 原文ママ)

 

350日前(令和6年4月19日) 

【はじめに~普光明寺について~】

 「三十三年に一度の御開帳」の舞台である普光明寺は大和田にある真言宗智山派の寺院で、その開基は大同元年(806)にまでさかのぼるといわれています。

 本堂は間口八間(14.54メートル)に奥行き七間(12.72メートル)、本尊として不動明王の立像(像高139センチメートル)を安置しています。江戸時代前期(平成25年に修理)のものと見られる山門は、当時の資料に「そのつくりたくみにしてことに高し」と記されているほど立派なもので、近在には見られないものです。また、市内屈指の古刹にふさわしく、寺宝として天平勝宝8年(756)に書写された「大威徳陀羅尼経第十二巻」(市指定有形文化財)などの数多くの文化財が残されています。

 さて、江戸幕府が編集した武蔵国の地誌である『新編武蔵風土記』(1810~30)に普光明寺についての興味深い見聞録が掲載されています。これから何回かに分けてご紹介する予定ですが、江戸時代の人々に普光明寺がどのように映っていたのかを鮮やかに読み取ることができます。

〇『新編武蔵風土記』 巻之一百三十一 新座郡之三 野方領 大和田町 より

【原文】 普光明寺 境内一町四方、街道の北にあたれる田間にあり。福寿山と号す。真義真言宗。醍醐報恩院の末にて江戸愛宕真福寺の配下なり。寺伝に大同元年律宗比丘開山すと云。按に大同元年は弘法大師いまだ野山を開かざる前なり。真言宗開基を問えば大同・弘仁の間を以て云ことかの僧徒の常にして、兎角論ずべきものなし。されば当寺の開山もその年歴しるべからず。ただし暦応年間の古仏像を此寺におさむといえばいずれにも古き世に開けし寺なることはしらるれど、大同元年に開山すとて律宗比丘を今も寺僧の奉ずるは一笑すべし。中興開山法印権大僧都承慶和尚。元禄七年九月二十一日示寂す。

【現代語訳】 普光明寺は境内一町(109.09メートル)四方。川越街道の北方の田の中にあり、山号を福寿山という真義真言宗の寺である。(京都)醍醐報恩院の末寺で、江戸愛宕の真福寺の配下である。普光明寺に伝わっている話として、大同元年(806)に律宗比丘が開山したと伝えられる。 案ずるに、大同元年は弘法大師が高野山を開山する前(注・高野山開山は弘仁7年(816))である。真言宗の開基と尋ねたら、「大同から弘仁の間だ」ということは真言宗の僧が常々口にするところであり、この話をあれやこれや論ずる必要もないだろう。したがって、普光明寺の開山もそのはっきりとした年を知ることはできない。ただし、暦応年間(1338~1341)の古い仏像をこの寺におさめているということは、いずれにしても古い時代に開山されたことはわかるが、大同元年に開山したとして律宗比丘を今でも僧が奉っていることは一笑すべきものである。寺を中興した法印(僧位の最上位)権大僧都承慶和尚は元禄七年(1694)九月二十一日に亡くなった。

(参考資料 『新座市史』4巻民俗編 『郷土史新座』 『新座市の歴史散歩』 『地誌』(新座市史調査報告書11))

365日前(令和6年4月4日)

 33年に一度の御開帳まであと1年となりました。本日からこの祭礼に関する情報や、大和田の歴史を紹介してまいります。


千体地蔵尊御開帳