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千体地蔵尊御開帳

ページID:0128214 更新日:2024年4月19日更新 印刷ページ表示
御開帳カウントダウン

33年に一度の千体地蔵尊御開帳まで、あと

 新座市大和田にある福寿山普光明寺には、33年に一度だけ御開帳される千体地蔵尊が祀られています。次回の御開帳は令和7年(2025)4月4,5,6日(金・土・日曜日)です。この機会に、ぜひご覧ください。

350日前(令和6年4月19日) 

【はじめに~普光明寺について~】

 「三十三年に一度の御開帳」の舞台である普光明寺は大和田にある真言宗智山派の寺院で、その開基は大同元年(806)にまでさかのぼるといわれています。

 本堂は間口八間(14.54メートル)に奥行き七間(12.72メートル)、本尊として不動明王の立像(像高139センチメートル)を安置しています。江戸時代前期(平成25年に修理)のものと見られる山門は、当時の資料に「そのつくりたくみにしてことに高し」と記されているほど立派なもので、近在には見られないものです。また、市内屈指の古刹にふさわしく、寺宝として天平勝宝8年(756)に書写された「大威徳陀羅尼経第十二巻」(市指定有形文化財)などの数多くの文化財が残されています。

 さて、江戸幕府が編集した武蔵国の地誌である『新編武蔵風土記』(1810~30)に普光明寺についての興味深い見聞録が掲載されています。これから何回かに分けてご紹介する予定ですが、江戸時代の人々に普光明寺がどのように映っていたのかを鮮やかに読み取ることができます。

〇『新編武蔵風土記』 巻之一百三十一 新座郡之三 野方領 大和田町 より

【原文】 普光明寺 境内一町四方、街道の北にあたれる田間にあり。福寿山と号す。真義真言宗。醍醐報恩院の末にて江戸愛宕真福寺の配下なり。寺伝に大同元年律宗比丘開山すと云。按に大同元年は弘法大師いまだ野山を開かざる前なり。真言宗開基を問えば大同・弘仁の間を以て云ことかの僧徒の常にして、兎角論ずべきものなし。されば当寺の開山もその年歴しるべからず。ただし暦応年間の古仏像を此寺におさむといえばいずれにも古き世に開けし寺なることはしらるれど、大同元年に開山すとて律宗比丘を今も寺僧の奉ずるは一笑すべし。中興開山法印権大僧都承慶和尚。元禄七年九月二十一日示寂す。

【現代語訳】 普光明寺は境内一町(109.09メートル)四方。川越街道の北方の田の中にあり、山号を福寿山という真義真言宗の寺である。(京都)醍醐報恩院の末寺で、江戸愛宕の真福寺の配下である。普光明寺に伝わっている話として、大同元年(806)に律宗比丘が開山したと伝えられる。 案ずるに、大同元年は弘法大師が高野山を開山する前(注・高野山開山は弘仁7年(816))である。真言宗の開基と尋ねたら、「大同から弘仁の間だ」ということは真言宗の僧が常々口にするところであり、この話をあれやこれや論ずる必要もないだろう。したがって、普光明寺の開山もそのはっきりとした年を知ることはできない。ただし、暦応年間(1338~1341)の古い仏像をこの寺におさめているということは、いずれにしても古い時代に開山されたことはわかるが、大同元年に開山したとして律宗比丘を今でも僧が奉っていることは一笑すべきものである。寺を中興した法印(僧位の最上位)権大僧都承慶和尚は元禄七年(1694)九月二十一日に亡くなった。

(参考資料 『新座市史』4巻民俗編 『郷土史新座』 『新座市の歴史散歩』 『地誌』(新座市史調査報告書11))

365日前(令和6年4月4日)

 33年に一度の御開帳まであと1年となりました。本日からこの祭礼に関する情報や、大和田の歴史を紹介してまいります。


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