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柳瀬川の肥沃な沖積低地に形成された大和田は、古くから居住の場のみならず、宿場や交通の要衝として栄えました。柳瀬川の流域には、縄文時代から古墳時代にかけて、約40か所の遺跡が認められます。
縄文時代には、既に先人たちの足跡がみられ、弥生時代に入ると、稲作農耕も大和田を中心にして、次第に耕地を拡げていったものと思われます。特に右岸の台地縁辺部に位置する新開遺跡からは、首長の墓といわれる方形周溝墓が発見されています。また、古墳時代の住居跡が多数出土しており、柳瀬川流域全体に居住空間が広がって、ムラへと拡大していきました。
天平宝字2年(758)、武蔵国に新羅郡が設置され、大和田はその郡下に属します。新羅郡は、延長5年(927)には新座郡へと名称が転じていますが、新座市の市名はこの歴史的郡名に由来するものです。
大和田は、鎌倉時代の正安3年(1301)に写本された「観経玄義分見聞集」において、大和田郷と記されてあり、当時は国衙領としての郷であったことがうかがえます。鎌倉道に沿って、古くから創建されていた普光明寺や氷川神社が中心となり、柳瀬川流域に文化の華が開き始めました。
近世に入ると大和田は、江戸と川越を結ぶ道筋(川越街道)にあり、柳瀬川の渡河地が宿となって、伝馬の継立てが行われるようになり賑いました。これが大和田宿です。大和田は江戸時代前期に、旗本芝山氏の知行地でしたが、のちに川越藩から上野国高崎藩松平氏の藩領になり、明治維新に至るまで、その支配下でした。
明治22年(1889)4月に、大和田は野火止・菅沢・北野・西堀の村々と合併して、大和田町となりました。やがて幾多の変遷を経て昭和30年(1955)3月に片山村と合併して、新座町の大字の一部、大和田となり、さらに昭和45年(1970)11月の市制施行により現在に至っています。