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黒目川にかかる堀ノ内橋の近くには「嵯峨山(さがやま)」という地名があります。
今ではあまり使われない名称ですが、明治14年の小字(こあざ)書上げ一覧には「嵯峨(さが)」として記されています。
「嵯峨」の名は、旧(ふる)くは京の嵯峨から付けたと言われています。
いつごろから使われたか明らかではありませんが、江戸時代の寛政12年(1800年)の村絵図には「嵯峨山」として載せています。
平安の昔、嵯峨山のある片山周辺は、「広沢の庄(ひろさわのしょう)」と呼ばれていました。隣接する朝霞市の岡(おか)には「広沢の池」と呼ばれる場所もあります。
このことから、これらの古称は、京都嵯峨の「広沢の池」と、その周辺にかかわりをもつ名称であると思われるのですが、なぜ京都とゆかりのある地名が使われたのか、興味深いものがあります。
江戸幕府の編集した『新編武蔵風土記(しんぺんむさしふどき)』には
…此庄名は何の頃より起りしや詳らかならず 本郡岡村の南の方に広沢の池あり…此庄は新倉片山 館の三郷にまたがり属する所の村多し…
と記述されています。