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にいざ見聞録(第22回 人の名・道の名)

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年11月1日更新


稲荷社の写真 菅沢と、あたごを結ぶ十文字学園女子大学前の道を「恵山(えざん)みち」と土地の人々は温情込めて呼びます。現在は道幅も広がり、交通の多い一般道になっていますが、古くは川越藩主松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)の新田開発によって作られた入会(いりあい)の道でした。
 江戸時代の初め、水田開発が限界にくると、水に恵まれず土地のやせた野火止台地にも開発が及び、広大な新しい畑作地帯が作られていきました。菅沢の畑作地帯もその中の一つです。
 この道名の由来である「恵山」は、上野国(こうずけのくに)高崎藩の家老・菅谷清章(すがやきよあき)の法名からきています。 清章は、享保5年(1720年)高崎藩小姓頭・菅谷有清(すがやありきよ)の長男として生まれ、15歳で高崎藩主松平輝貞(まつだいらてるさだ)に拝謁し、輝規(てるのり)・輝高(てるたか)と三代の藩主に仕え、のちに家老にもなった人です。主に国元(高崎)で政務をとりましたが、その後隠居し、菅沢の稲荷社(いなりしゃ)脇に隠居所を建て住みました。
 また君恩(くんおん)に感謝するため、平林寺の輝貞公墓前に石灯籠を献じています。
 晩年は「恵山玄忠入道(えざんげんちゅうにゅどう)」と称して悠々自適の生活を送りましたが、天明2年(1782年)世話になった菅沢村に隠居所の土地と畑などを寄付し、寛政5年(1793年)6月29日、73歳の天寿を全うしました。

案内図

新座市菅沢二丁目付近

案内図