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鎌倉の東慶寺(とうけいじ)は一般には「駆込寺(かけこみでら)」とか「縁切寺(えんきりでら)」と呼ばれています。
東慶寺に残されている慶応2年(1812年)の日記には、この年だけで47人の女性が駆け込んでいますが、中に新座市域に関する離縁の事例が確認できます。
幕末の慶応2年4月3日の記録には、石神村の百姓・角兵衛の娘たか(22歳)が、所沢村の百姓・孫七の二男で夫・金七との離縁を願って東慶寺に駆け込んでいます。
このことは、夫の金七や媒酌人である亀ヶ谷村の三右衛門と所沢村の亀次郎からもすぐに東慶寺へ届出が行われました。
その後4月20日までの間に、たかの親や媒酌人、金七と親の孫七ら関係者の呼び出しと吟味が行われ、同日には和解離縁が成立して、たかは母と親類に付き添われて下山しました。
たかの場合は、本来ならば3年の修行を経て初めて「縁切り」が成立しますが、夫側の親より和解離縁状が出されたので、その時点で離婚が成立し、そのため修行尼とならず下山を許されたものです。
駆け込みの理由は定かではありませんが、市域においても離婚のため50キロメートルも離れた鎌倉の東慶寺に駆け入りを果たした女性がいました。
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺