本文
江戸時代の末には、都市ばかりではなく、地方でも庶民の教育が広く行われるようになりました。庶民の子どもたちに教える場所が、一般的に寺院だったため、寺子屋と呼ぶようになりました。
師匠には、武士、神官、僧侶、医者など知識を持った人々がなりました。手習いの内容は、「読み・書き・そろばん」が主なもので、学校が開設される以前の学習塾のようなものです。
「埼玉県教育史」によると、市内には二つの寺子屋がありました。一つは、中野村の農民細沼清吉(ほそぬませいきち)が開いたもので、福永という武士の妻が師匠でした。同家は、幕末に農民が開設した寺子屋です。
もうひとつは、片山法台寺(ほうだいじ)の寺子屋で、当時住職をしていた宗誉善敬(そうよぜんけい)が師匠でした。
その法台寺には、写真のような「筆子塚(ふでこづか)」が残っています。筆子(ふでこ)とは学問を学ぶ生徒のことで、筆子塚は師匠の遺徳をしのび、たたえるために建立したものです。
法台寺の寺子屋は、文字通り寺院に開設された寺子屋でした。
新座市道場一丁目10番13号 法台寺